1970年代から80年代、日本の広告業界を牽引してきた大石陽一さん(S30米英)

元会社の30年前の同僚、女子会。両手に花以上。
現在、92才の大先輩である大石陽一さん(S30米英)に50年ぶりに会うことができました。大石陽一さんのご自宅の近くということで、流山おおたかの森駅前(千葉県)のコーヒーショップで、会うことになりました。
大石陽一さんは、1970年代から80年代、広告代理店(マッキャンエリクソン博報堂)の営業責任者として、日本の広告業界を牽引してきた一人です。主な広告ブランドは、「違いがわかる男のゴールドブレンド」NESCAFE(遠藤周作、中村吉右衛門、山本寛斎などを起用)、「出かけるときは忘れずに」AMERICAN EXPRESS(ジャック・ニクラス)、「I feel COKE」COCA-COLA、「デジタルはカシオ」CASIO(山口百恵)、「真っ赤なおいしさ、デルモンテ」 Del Monte、「あなたに今夜はワインをふりかけ」マンズワイン(沢田研二、松本幸四郎)などなど、圧倒的な広告露出量、良質なビジュアル、一度聞いたら忘れない広告コピー、素晴らしい広告サウンドでした。裏話を山ほどしましたが、ここでは、内緒ということになります。

同じ同窓生なので、当然、北九大の学生時代の話に展開していきます。
大石陽一さんの親父さんは、小倉の北方にあった小倉陸軍造兵廠に勤めていたが、戦争も終わり、失職したので、大分県宇佐郡院内村にある山奥の農家であった実家に移り住んだ。ひどく貧しいので進学は許されず、農学校に行った。数学、化学、物理は習っていないので分からず、国立大学の進学はノーチャンスだった。英語は、NHKラジオ講座「カムカムエブリィボディ」を聞いて、独学で学んだ。選択肢は北九州大学しかなかった。
戦後、陸軍造兵廠は米軍キャンプとなっており、親からの仕送りはないので、駐留軍の夜勤の通訳として働きはじめた。その後、給料が高くなる、米軍キャンプ内にあった銀行の行員として働きながら、大学を卒業した。英語力は、銀行員をしながら、見よう見まねで磨いた。卒業する頃、フルブライト奨学生試験に合格し、面接試験を受けたところ、面接官に「アメリカのどこの大学に行きたいんだ?」と聞かれたので、とっさに、「ミネソタ大学に行きたい。」と言ったそうです。「ミネソタ大学に行って、何を勉強したいんだ?」と聞かれたあたりから、雲行きが怪しくなり、不合格になった。アメリカの大学に留学して何をするのかというところまでは、まったく、考えていなかった。
ちなみに、赤線が廃止になったのは、昭和33年。北九大に近いところにあったのが、城野駅周辺。武勇伝があったようですが、控えておきます。

左:米軍キャンプ
大石陽一さんのFACEBOOK
僕の卒業年次は32年となっていますが、実は僕は30年卒業です。何しろ当時の大学進学率が男子8%の時代で、大学進学者は国公立、私大を問わず、地方紙や、全国市の地方版に名前が出るくらいで、魚町の交差点を信号無視で渡ろうとすると、交通警官に「コラッ、最高学府の学生ともあろう者が、赤信号を渡ろうとは、何事だ!」と怒鳴られましたからね。あの時代の1-2年は今日の5-6年ほど違います。(大石陽一さん、2025.5.18)