東の相田みつお、西の坂村真民
「念ずれば花ひらく」の詩集で有名な坂村真民さんが、新田高校(松山市)で教職をしていた頃、教え子の一人が北九大同窓会愛媛県支部長として奔走している松田孝雄さん(S53国文)です。
松田さんが新田から北九大に来たというのも驚きですが、坂村真民さんの教え子ということで、二度ビックリでした。
平安時代、紀貫之が書いた土佐日記は、「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて、するなり。」で始まる。坂村真民先生の、「すなる」と「する」の文法的意味、その違いの説明の授業が、一ヶ月も続いた。
また、坂村真民先生は、一遍上人を敬愛し、毎日、午前零時に起床して夜明けに星天仰臥で、住まい近くの砥部の河原(重信川の川向うが松山市の隣の砥部焼で有名な砥部町)に出て、冷気の中天を仰いで、思索する日課のことや、ご自身の生活と生きがいなどの話をすることが多く、1年経っても、古文の教科書は、全部の5分の1も進まず、松田さんは、こりゃ受験の役にはたたん授業だと割りきってラジオ講座で勉強した。坂村真民先生の人生読本のような授業になっていた。
坂村真民さんは、1909年(明治42年)、熊本県荒尾市生まれ。8歳の時、父親が急逝。母36歳で「5人の子供を自分の手で育てる」と譲らなかった母のおかげで、母を少しでも助けたいと借りた畑でソバをつくったり、草鞋を編んだりして育ちました。
極貧の日々の中で、母がお経のように唱えた言葉が「念ずれば花ひらく」。
神宮皇學館卒業後、熊本で教員となる。その後、朝鮮に渡って師範学校の教師に。終戦後、朝鮮から引き揚げて愛媛県に移住。宇和高の教員として国語を教え、58歳の時、砥部町に定住し、新田高で古典を教える。65才で退職。生涯に一万篇以上もの詩を創作。2006年(平成18年)97歳で砥部町にて永眠
20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。


書籍紹介『願いに生きる』:10名程度の参加者から始まった朴庵例会は、14年続き、回を追うごとに口コミで評判を呼び、毎月100名以上もの愛好者が全国から集まるようになった。限られた人しか聞くことのできなかった貴重な講話が、生誕から110年経ったいま甦る。「生かされて生きる」「本当に偉い人」「宇宙のまなざし」「念ずれば花ひらく」の4章から構成。「二度とない人生だから」「なにかわたしにでもできることはないか」など、多くの名詩が想いやエピソードとともに綴られている。

